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2011/01/27

おおむね1月が過ぎるかな

 いや~、激忙の日々だったわ。
 と言うわけで、この2011になってひと月の間の雑記。

 なんかスマートフォン(省略形:スマホ?)は、『多機能電話』と訳すらしい。
 なんだ『多機能』って? どちらかと言えば現在ガラケーと呼ばれているデバイスのほうが多機能ではないのか?
 実を知らないやからが付けた、妙な単語ってとこか。

 へー、名古屋には『マナカード』ってあるのか。Konamiとコラボしそうな名前だなw
 とは言え、あのKonamiがそんなことをするはず無いかな。

 Treo750vを使い始めて早2ヶ月ほどか。どうもインストールしたFSKARENの変換が遅いが、ARM920T 300MHzでは致し方がないか。実際は健闘しているとも言えるかも知れんな。

 Google ChromeのCMで「動画も快適」とか何とか。
 でもそこで言う動画って、Adobe Flash(Macromedia Flash?)じゃないのか? 違うことを言いたいのかも知れないが、そんな風にしか聞こえなかった。
 それにタブがいくらでも開けるからって…どうなんですかね?

 オリオン座の形が近年中に変る予定らしい(かなりやんわりと書いてますが)。
 2wほどは夜が明るいらしい…それはそれで凄いな。
 無くなる前に、この目に焼きつけておかなくちゃな。

「加減乗除」と言ったら、そういうことわざか何かがあるのかと勘違いされる。
「和差積商のことだ」と言い直したら、『わさせき省』という期間があるのか、と誤解され…。
 何のネタなんだっつーの。

 AKB48のチケットをもらってmixiに書くってのは、ねぇ。まあ、陪審員も報知した者がいたようだし、internetという世界が日常普通化してから、どうも暗黙的守秘ということも分からなくなりつつあるのか? 何でもblogに書いたりつぶやいたりする意味が分からない。
 まるで、王様の耳はロバの耳、というイメージだな。
 と言ったところで、自分も同類のような気もするが。

 とりとめもなく、そんなトコですな。

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2011/01/02

BOOKOFFで必死な人

 よくBOOKOFFに行って古い書籍をチェックするのだけど、ここ最近は『必死な人』をよく見かけるようになってきた。
 概ねケータイ片手に、バーコードを確認する。一覧にあればかごに入れ、無ければ戻す。いろいろなジャンルの書籍をかご一杯に入れてレジへ。

 先日は更に上の人を見かけた。
 バーコードリーダー片手に、片っ端からスキャン。何かあればかごへ。確かに効率は良いな(しかしこっちもチェックしているんだから邪魔してくるなよ)。

 思うに、これは転売のため?
 それとも、本当に自分で(そんな多ジャンルを)読みふけるのか――他人事だから構わないんだけど。

 どうでもいいことかも知れないが、こういう方々に限って周囲を見ないというか、隣に人(小生)がいても気にせず邪魔してくる。まあそういう方々だからこそ、まともに社会的な地位をもって仕事に就けないのかも知れない(偏見ではあるが)。If so, 実はかわいそうな種類なのかもな。

 とは言え抜本的に国が政策をとっても、それは天下りやら何やらで無駄がはびこる温床になるだけか。
 ここでふと思いついたのは、培養床の入ったシャーレーだな。

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2011年になっても変わらんこと

 新年の挨拶もそこそこに、まあ、あちこちで見かける話を元に、個人的な愚痴をば。

 どうも巷の人々は、かなり(ケータイで言うところの)ガラパゴス化に馴染んでいると言うか、自分たちがso-soとして使っているもの――それが普通つまり土台としている感がかなりある。
 だからそこから外れると(知恵から物から海外産であると、そのほとんどが外れているようだ)、難癖付けることが散見される。

 例えばAndroid。まあAndroidケータイでもいい。とりあえずキャリアの意向で自由度が減っていることは確かだが、それは日本国内の話としてここでは切り離して考える。
 Androidと言っても所詮はLinuxである。それ自体はほぼ今までの『ガラケー』と変わりはない。Android自体はフレームワークでしかなく、とりあえず搭載すれば元からついている電話機能が使えるようになる。
(OS屋として言うと、Linuxを含めたAndroidが目の前に見えるシステムとしてはOSであるが、AndroidはOSでは無い。このあたりを混同している人が多いが、まあそれは置いておく)

 あとできることは、アプリケーションの搭載と見た目(これは装置自体の外観と、表示されるGUIどちらにも関連する)。
 組込み系の経験をそれなりに積んでいる人は既にお分かりの通りだが、これは結局『ガラケー』と同じことである。

 Androidのオープンさを肯定する・否定する、両方の意見があるのだが、実は是非なんてどうでもよい話なのだ。
 その部分を汎用的にいうと、単に機能(アプリケーション)のインフラがそろえば、それでおしまい。実はその程度のことなのだが、インフラを整備するのは非常に時間と金がかかる――そこはここでは言及しない。

 また、装置(=端末)自体を考えてみよう。
 コピーしてでも安価に作って売れたらそれが商売、という近隣国では、スレートというかAndroidタブレットがやたらと作られていて(ほとんどがRPコピーでしかないが)、もちろん名だたるメーカ品であっても、そのほとんどがRPを元にしていることは確かである。

 それを購入した者が、やれ買ったコレは何々より操作性が~、とか見た目が~、とか。
 ほかの国はどうか知らないが、まったく『(ステレオタイプの)日本人は完璧を求める』もんだな、と思った。

 自分に合わなきゃ買わなきゃいいのに、それでも買って文句だけは言う。しかも非建設的である。
 そりゃぁほとんどが自分では何するでもない非エコ型人なんだな、仕方がないとも言えるのか…。

 そうそう、非エコで思い出した。
 生活家電はどんどん分解できなくなってきた。お蔭で何かあった場合は手元で直しにくい(と言うより、ほとんど直せない)。

 直せないから捨てて、新しいものを買う。
(裏として、修理代を支払うよりも、新規購入の価値観が物質的にも精神的にも上となってしまうようになってしまう)

 商売側からの見地では正しい。しかしエコではない。
 そんな商売をしている会社らが、『エコ』を謳っている昨今である。

 もちろん小生もその一人である。
(直接そういう商売をしているわけではない)

 新年早々、つまらん事ばかりが頭を悩ませる。

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